村田兆治が落合博満を三冠王にしたのは本当?凄すぎるエピソードはコチラ!

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ロッテオリオンズの2大レジェンドといえば、村田兆治さんと落合博満さんを思い浮かべる人は多いのではないでしょうか。

マサカリ投法と3度の三冠王の2人には伝説の話があったようです。

そこで今回は、村田兆治さんが落合博満さんを三冠王にしたのは本当なのか、凄すぎるエピソードを見ていきたいと思います。

目次

村田兆治と落合博満のロッテ時代

村田兆治氏は1949年生まれで、福山電波工業高校の剛腕投手として当時から注目されており、スピードガンがあれば152~153km/hを出していたと言われます。

1967年にドラフト1位で東京オリオンズ(当時)に指名されています。

一方の落合博満氏は、1953年生まれで、秋田工業高校から東洋大学(中退)へ進み、プロボウラーを目指します。

その後、東京芝浦電気の府中工場に臨時工として入社し、社会人野球へ。

1978年にドラフト3位でロッテオリオンズから指名されています。

この時、落合氏は25歳。

落合氏は1978年に入団し、1987年に中日へ移籍しましたので、2人が一緒にプレーした期間はです。

村田兆治氏と落合博満氏がロッテ時代に一緒にいた期間は、1978年から1986年の8年間ということになります。

村田兆治が落合博満を三冠王にしたのは本当?

落合博満さんは、「プロの党首の凄さを教えてもらったのは間違いなく村田さんです」と話しています。

長島一茂氏は現役時代に落合氏のバット運び(経済界で言えば、カバン持ちみたいなもの)をやっていましたが、落合氏はバットを折らないことでも有名だそうです。

その理由は、バットが折れるのはバットの芯を外してしまうことから起こるそうです。逆に言えばそれだけ落合氏は、芯を外さない超一流プレーヤーということですね。

落合のバットを2球続けて折った!

そんな落合氏が入団したての頃、練習で対戦したのが村田兆治氏で、2球投げて2球ともバットを折られたという。

落合氏が2球続けてバットを折られた経験は今までなかったことから、これ以上のボールを投げる人はいないと思ったそうです。

落合氏はあのボールはいまだに忘れることはできないと言い、そのボールを見てから対戦する相手のボールは打てる思ったそうです。

アのボールからプロのボールを学んだと言いますから、かなりの衝撃だったのでしょうね。

この出会いがあったからこそ、偉大なバッターの落合氏が生まれたことは想像できます。

「あんな投手いないよ。俺はあの人からプロとは何か全て教わった」と落合氏は話しています。

村田兆治と落合博満の凄すぎるエピソード

村田兆治氏が右ひじの故障で、トミージョン手術をしたことは有名ですが、復帰後の登板で「絶対に100球を超えて投げてはいけない」と執刀医から言明されていたそうです。

もし、このことを守らなければ、二度とひじは使い物にならないとまで言われていました。

しかし、自身の先発完投というスタイルを変えたくないという思いが強く、155球を完投しました。

この試合は4番の落合氏が2本のホームランでエースの村田氏を援護したのが勝利へと結びついています。

その時の落合氏と村田氏の会話は次のとおりです。

「試合前に『落合、お前今日何本打つんだ?』と聞いたら『2本です』と答えたんだ。有言実行してくれたよな」と村田は回想。

当時の紙面には落合のこんな談話が載っている。「あれだけ村田さんが頑張っているのに、打たないわけにはいかんよ。何とか勝ってもらいたい、というムードでいっぱいだった」

引用元:Yahoo!ニュース

いわゆる落合氏の2本の予告ホームランという、信じられないバッティングです。

そして凄い集中力と絶対に打つという執念が宿っているようですね。

村田兆治氏も凄いですが、さらに輪をかけて落合博満も凄いです。

次の年に村田氏は、カムバック賞として開幕から11連勝を記録しています。

そして、1989年に200勝を達成し、翌年の1990年に引退しています。

村田兆治と落合博満まとめ

今回は、村田兆治さんが落合博満さんを三冠王にしたのは本当なのか、凄すぎるエピソードを見ていきたいと思います。

落合氏が入団して初めて対戦した村田氏のボールが凄かったようです。

3度の三冠王という落合氏のバッティングはこの出会いが原点となっていたようです。

そして、村田氏がひじの手術から復活登板をした試合も、村田氏の力投と落合氏2本の予告ホームランが神業でしたね。

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